はぎりぎり。
と言ふことで、厳しいタイトルなので、可愛く行つてみやうと無理矢理でした。
久々のドキュメンタリーと言ふかノンフィクション。
作家本人も「これは小説ではない」と強調してます。
原題は『La traverse'e』フランス語です。だから「'」は、アポストロフィではなくて最初の「e」の真上につく奴です。二つ目にはついてません。長島良三[訳]河出書房新社。
何故このやうな本を読んだかと言ひますと、今身近だからとかさういふわけではなく、作家(経験者)がフィリップ ラブロだつたからです。
まあ、図書館でたまたま見つけた本ですが、フィリップ ラブロ。
いつの間にか小説家になつてゐたのですね。知りませんでした。で、本を読むと、元々はジャーナリストだつたこともわかります。
映画監督はその次ですね。ぼくの知つてゐるのはそこです。
おそらく1本しか見てゐない。解説に7本の映画と書いてありましたが、タイトル全部は書いてない。日本未公開作品もあるのでせう。
ぼくの見たのは『相続人』と言ふ映画。たつた1本ですが、印象に残る映画だつたのです。昨年、CD大量処分してゐる時期になんと待望のサントラ版が出て、処分中にも関はらず即買いました。音楽がまた印象的だつたんでね。ミッシェル コロンビエ。日本では、ミッシェル ルグランが有名な時期(?)で、いまいちマイナー。アルバムは、そのミッシェル ルグランとフィリップ ラブロのコンビの映画3本が入つておりました。
主演はジャン ポール ベルモンドね。好ッきな役者です。
知らされて思へば、確かに元ジャーナリスト的な映画でありましたな。
フランスの映画監督では、ジャン エルマンと言ふ人も小説家になつてます。ジャン ヴォートランと言ふのね。この人の小説が病的なんですが、印象度高いです。他にジョゼ ジョバンニも小説書いてますな。フランスの映画監督は小説書くのが好き?フランスの映画は小説的?
それはさておき、この本を読んでゐると、Lincyの幅広さを感じます。フィリップさんは実際に死の境を彷徨つた訳ですが、例えば、バイクで走つてゐてダンプと接触しさうになりすれすれで回避することもある種のLincyだなあと思ひます。峠を攻める若者たちはLincy体験を楽しんでゐることになりますね。もちろん医学的には違ひますが、死に接した生活はどこにでもあると思はれます。問題は「その後」なんでせう。
峠を攻めた後に、俺は死を味はつた他人のことを思ひやらうとはなかなかなりませんな。
なので、新しいLincyの定義をしてみませう。どんなに死線を往復しても、持ちこたえた後に「がははは〜!俺は死ななかったぞ〜!ラッキー!これからはもっとやりたい放題やるぜ!」とか言ふ奴はLincy体験したとは言はない。よく「仏様のやうな人だ」などと言ひますが、生還してすなわち「生き仏」ですか!?になつた人が、正しいLincyを味はつたと言ふことにします。
と、罰当たりなことを書いちまいました。
フィリップさんに話を戻しますと、ジャーナリスト、映画監督、小説家と渡り歩く氏に対して、ロマン ギャリー(本文ではロマンガリだけど、表記の仕方の違ひだと思ふ。ギャリーが多いと思ふんだけど)が、さまざまな仕事に挑戦するのは、大人になること、死をこばんでゐるからだと言つたさうで、この時にそれを納得したさうです。(ロマンギャリー自身も、小説書いたり映画監督したりしてた人です)
さて、その際の現象ですが、ほとんどが思ひ出す行為(人生走馬灯ですか?)に近いのですが、フィリプさんはそれは本当だが本当ではないと言ひます。それを話す人からはもつといろいろ聞き出せることがあると。もつと肝心なものがあるのだと。それは通り過ぎてきたことを考え直す。別の視点から見る。気づかなかつたことに気づくと言ふことだと思はれます。
しかし、死に接しなければ真の価値に気づかないとなればそれは惨いですな。出来れば生のまま見出したいものです。ま、そんな甘い希望にも応じて(?)フィリップさんは、可能だよと言つてます。‥‥‥と、思ひます。大学時代に小児まひのターナー教授が朗読してくれたと言ふウォルト ホイットマンの「詩」を引用して語つてゐることがさうだと思ひます。
これラストの章なので、これ以上書きませんが、この本は「Lincy体験しちゃった〜、面白いから書くね」ではないことがわかります。(そりゃあ当たり前だろ!)とある看護婦(何故か韓国人)に関する面白いと言ふか興味ある事象も出てきますが、不思議な出来事は、いつもあると語つてゐます。
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