壮士、荒野を駆ける2008年04月28日 04時59分39秒

 勁文社(けいぶんしゃ)昭和62年4月15日発行
 著者 胡桃沢耕史 ケイブンシャ文庫179
 (現在、書店にあるかどうかは不明)

 『東干(トンガン)』『大別山日報(ターピエンシャンエルパオ)』『易水』の三篇からなる中篇集。
 表題の『壮士、荒野に駆ける』といふ名の作品はない。
 特に、初出などの説明がないので、表題が作家のものによるのかどうかわからない。

 中篇集といつても『東干』は小説。
 『大別山日報』は回顧録といふべきか、文中に『書き始め、書き終えた今でも、未だ公開をためらう気持ちが、強くぼくの気持ちをゆすぶる』と、記されてゐる切ない書。
 『易水』に到つては、なんと表現したら良いのか……。

 2200年前の昔に起こつた出来事の深さ、重さを理解するために、古典中国の楽典を西洋音階と比べながら事細かに説明し、その時に歌はれた歌がどれほどの悲愁を帯びてゐたかをひもとく。そして、時代をさらに200年ほど遡りつつ、戦乱の世に人と人がぶつかり合ひ、どこにどんな感情を持つた人々がゐて、どのやうに生きたかを(非常に愚鈍なたとえで申しわけないが「風が吹けば桶屋がもうかる」的な事)淡々と述べて、壮士の旅立ちに結びつく。
 壮士は荊軻(けいか)、旅立ちの目的は始皇帝の暗殺。
 しかし、目的は果たせず、時は一気に『昭和』のあるとき、日本の軍隊がその地を跋扈してゐたころにまで飛びます。そこで起きた空しい事をまた淡々と……。
 小説とも論説とも解説ともなんとも、この世の事象が書かれてゐる作品です。

 『時』が伝へるものとは何なのか?
 それにはどれほどの重みがあるのであらうか?
 といふやうなことを考えさせられます。

 三篇に共通して流れてゐるのは、当時の日本軍(特に上に立ち命令する人たち。軍隊を外れても当時のエラい人たち、上から目線の人たち)に対する反感と嘆きのやうなもの。思ひ出の地としての中国といつたところでせうか。

 一時期、胡桃沢耕史作品は、集中的に読みました。
 読んだ本に日付をつけてゐたころがあつて、これはその一冊。
 1987.8.10.とあります。
 古典に慣れ親しむことなどないものにとつて、この本は『風は蕭々として易水寒く 壮士ひとたび去ってまた還らず』との出会ひの書であります。
 この言葉が深く深く深ぁ〜く胸に残つたのですが……。
 20年ぶりに読んだところ、すべて新鮮!初めて読む面白さ!

 ……って、おいおい。
 乱読身につかず、感激も余情も忘却の彼方。
 時はいたずらに過ぎてゆく。
 重さも軽さもへったくれもありゃしない。

 いや、年月を経て、やうやくこの書の良さが判る時が来たのだ。
 といふことにしておきます。