血の収穫、及び ― 2008年05月16日 06時16分50秒

ダシールハメット
創元推理文庫 1959年6月20日初版 1976年4月23日17版
田中西二郎訳
カバー 和田誠
ちなみに、ハヤカワミステリだと『赤い収穫』(小鷹信光訳)
内容から意訳するか、原題を直訳するか、発行社の社風の差を感じる!?
奥付から判断すると、1976年に読んだ事になる。このころはまだメモる習慣がなかつたので、確実ではないがこの年の12月9日に日劇で『用心棒』と『椿三十郎(もうすぐ四十郎)』のリバイバル2本立てを見たから、5月から11月の間だと思ふ。
何故そんな事を推測するかといふと、『用心棒』を見たときに「あれ?……これは『血の収穫』だ」と思つた記憶があるからだ。
しかし……。
と、先を急ぎたいが、この問題は少々ややこしいので(それ以 前にそもそも問題にしてゐるのは、ここにゐる一名だけなのだが)もう少し、順を追つて整理したい。
『用心棒』は、1961年の作品だが、見たのは書いた通り1976年。そんな人は多いと思ふが、先に『荒野の用心棒』を見てゐる。これは1964年の映画だが、見たのは1971年あたりから、本家『用心棒』を見るまで3回ぐらい、全部テレビ放映でだ。
解説者は誰であれ必ず言ふ。「これは、黒澤明監督の『用心棒』の盗作で訴えられたけど和解した。それはともかく、これはこれでひとつの独立した映画としてよく出来ている。面白い」
なんだか素直でない褒め言葉かな。
さて、ここで、もう一回整理して順番に並べてみる。
『荒野の用心棒』
『血の収穫』
(ガラスの鍵)
『用心棒』
(ミラーズクロッシング)
『ラストマンスタンディング』
となる。
むむ!?
話題にしてゐなかつたタイトルがいきなり3つも出て来る。しかもそのうち2つは()に囲まれてゐる。
ラストの『ラストマンスタンディング』は、ストーリーは、菊島隆三と黒澤明のものだよとオープニングクレジットで明記されてゐる。
1996年の映画。(最近だ!?)
あまりにも期待し過ぎて見たために、肩すかしを食らつてしまつたものだ。自分の頭の中には『用心棒=血の収穫』といふ公式が完全定着してゐたから「これは先祖返りだ!」なんて、盛り上がつてゐたのだ。
ひとりで勝手に盛り上がるのはほどほどにしないといけない。
実は、このブログを書くために、(わざわざ!)レンタルDVDを借りて見直したのだが、結構面白かつたのだ。
主人公のモノローグが、少々鬱陶しかつたけれど、これはハードボイルドを意識したのだらうか?
ハードボイルド小説は一人称の作品が多い。『血の収穫』もさうだ。特に『血の収穫』の場合、「おれ」で語られる物語の中、主人公の名前がわからないままだ。
たまたま書いていたらさうなつたのではなくて、これはもう意識しまくりで名前を明かさない。
コンチネンタル探偵社サンフランシスコ支局の探偵であることは確かだが、持つてゐる名刺はいろいろな業種でばらばらの氏名だ。状況に応じて都合のいい名刺を出すらしいのだ。
相手によつて「名前は言っても意味ないです」とか、「おれはハンターとかハントとかハンチントンとか、いい加減な名を言って、先方の名をきいた」とか、「おれは自分の名を書いた紙片を渡しながら言った」とか、「男の声で、いやに気取った口調で、尻上がりにおれの名を言った」などなど、きりがないけれど、読者は名前を知る事が出来ないのだ。
ここで、はたと思ひつかう。
桑畑三十郎。
これは、偽名だ。
『椿三十郎』と2本立てで見るとより明確にわかる。
名前を聞かれた流れ者は、窓の外に目をやり、そこにある桑畑(正直言つてただの荒れ地にしか見えないのだが……)を見てさうこたえるのだ。
名前を言つても意味はないです。と同じだ。
『ラストマンスタンディング』ではジョンスミス。さすがにジョンドゥではないが、いかにもありきたりな桃太郎なのだらう。
しかし、こちらは追はれる身のやうな雰囲気をにおはせてあり、名前を明かさない理由がありさうだ。
『荒野の用心棒』は忘れた。3回以上は見てゐると思ふが、名前には大して意味がないのだといふことにしておく。
と、まあ『血の収穫』と『用心棒』の共通点を見つけたところで、最初の方に書いた『しかし……』へ戻りたいと思ふ。
数ヶ月前、読み直したのだ。30年余りの時をへて。
で、もろくも崩れたのである。
『血の収穫』と『用心棒』の公式が。
自分の頭の中では「そつくり」だといふことになつてゐたので、そりゃあ崩れても仕方がないのだけれど、こんなにも違つたのかと、愕然とした次第です。
確かに考えてみれば、先に『荒野の用心棒』を3回も見てゐるわけで、それが、もし翻案の盗作だとすれば、『血の収穫』を読んだときに「これは『荒野の用心棒』だ!」と思つてもいいわけだ。
いやはや、これほど思ひ込みと忘却が激しくては、ものを比較する事なんて出来やしない。
ただ、もちろん、翻案とまではいかないけれど、細かいアイデアやイマジネーションの基軸になつたとは考えられる。
ただ、それつて『赤毛のアン』を見て『陰謀のセオリー』を作ったとも言へるわけだし(おしゃべりな主人公つながりね)先祖返りの『ラストマンスタンディング』の焼き討ちのシーンなんか『血の収穫』の一場面の映像化ではないかと思へるぐらいイメージ重なります。
イメージは見る時の状況によつて変はるもの?
なんだらうな〜。
そこで、()付きなんてものが出てきてしまうわけです。
『ガラスの鍵』こそ『鍵』だつたりして。
そんなんばつかりですが、つまり『ガラスの鍵』を読んだとき、『血の収穫』に似てゐるなと思つたのです……。
と、ここで、全然そんなつもりはなかつたのですが、なんだか方向を見失つてしまつたので……。
なんとなく時間切れ?だし……。
つづく。
マルタの鷹で茶をにごす? ― 2008年05月18日 11時07分53秒

『ガラスの鍵』は、ハメットの中で一番好きな作品で(本当か〜〜!?)創元推理文庫版と、新訳のハヤカワ版を両方を読んでおります。(本当か〜〜!?)
が、己にかうまで確信が持てなくては、意味が無い。
それから、何故『用心棒』と『血の収穫』の関係にこだわつてしまうのか、いや、こだわつてしまつたのか?
その辺の理由も整理しつつ、また会ひませう。
といふことで、けふは『マルタの鷹』
the maltese falcon (マルタの鷹)
ダシールハメット(dashiell hammett)
創元推理文庫 1961年8月25日初版 1976年1月16日14版
村上啓夫(むらかみひろお)訳
カバー 日下弘
きっかけは、村上春樹の新訳『ロンググッドバイ』(定番の清水俊二訳は『長いお別れ』)からなのだけれども、昨年10月後半から12月あたり、集中してハードボイルドを読み直した。
だから、本来はその頃のブログが、ハードボイルド特集になつてしかるべきだつたのだが、実際に書くつもりもあつたのだが、実行してない。特に理由もない空白の日々。
それを今頃、書き始めたことにも理由はない。
このところ、部屋の片付けもせず、いよいよ世に言ふ『片付けられない女たち』の部屋になりつつあつたので、少しだけ整理を始めたところ、本棚から取り出して読み直した本たちが、バラバラと本棚に戻る事もなく平積み(!?)されてゐて、つまり、それは本棚に戻されるべき本たちで……。
やはり、書いとくか……と、思ふに到つた。
ただ、読み返したといつても、ハメットは『血の収穫』と『マルタの鷹』、ネオハードボイルドと呼ばれるドナルドE.ウエストレイク『殺しあい』以外は、全部ロスマクドナルド。肝心のチャンドラー『長いお別れ』を読み返してなかつたりする。
それの最大の原因は、あるはずの本が見つからないといふ極めて単純なことだつたりする。
捨てるはずはないのだが……。
ハメットが2冊で終はつてゐるのは『ガラスの鍵』が好きだからである。好きなものは後にとつておく主義?
そのわりには好きなマクドナルド(これだとハンバーガー好きに聞こえてしまう?)を集中して読んだりしてゐるが……。
多分、おそらく、読み返したハメットの二冊に、想像を絶した衝撃を与えられたからだと思ふ。
何度も書くけれども、以前読んだことがあるとは思へない新鮮さと面白さ。
『血の収穫』は一人称で語られる本人の傍若無人さ、展開の豪快さに「なんぢゃこれは!」と何度も口にした。
こんなに凄い小説だつたんだと、いまさら……遅ればせながらに思つた。30年前にはさほど思つてゐなかつたのだ。
でも『マルタの鷹』から受けた想像を絶する衝撃はいささか違ふ。
また映画の話になる。
映画『マルタの鷹』は何本かあるやうだが、有名なのは1941年(日本公開は1951年らしい)のハンフリーボガード主演のものだ。
見たのは、もちろんテレビの洋画劇場だ。その映画の印象が強かつたために、後に小説を読んだときにそれほど衝撃を受けなかつたとしても仕方ないかもしれない。映画はかなり原作に忠実だつたと思ふ。主人公の迫力も同じだ。
『血の収穫』は一人称で語られるが、こちらは違ふ。主人公の名前も冒頭一行目でその要望とともに明かされる。
そして、一人称でない分、さらに強引さを増してゐる。気をつけてゐないと、何を頼りにしてよいのか判らなくなるのだ。
ほとんど会話で話が進んで行くのだが、なにしろ信用の出来ない奴らばかり出てきて、嘘とごまかしと策謀で、しゃべりまくるのだ!まともな奴はゐないのか!?
もしかするとこの人はまともかしら?と思へるやうな奴が出てきても、こいつは何の裏付けもなく自分の感性のみ、自分の思ひ込みだけで話すやうな奴だつたりする。
はつきり言つて、なにがなんだかわからない、何もかもが不明、ひとつだけ確かな事は、全部悪い人といふぐらいの状態のまま(つまり場合によつては読者置いてけぼり?)がんがん進んで結末は……。有名かも知れないが書くのはやめておかう。
てな、衝撃を受けたんである。
『血の収穫』は、こんなに面白かつたんだといふ衝撃。
『マルタの鷹』は、こんなに滅茶苦茶だつたんだといふ衝撃。
これでは、三冊目の『ガラスの鍵』に手が出せなくても仕方あるまい。
でも、自身の思ひ込み問題点を明らかにするためには、読まねばならないのだ……。
五日市線某駅付近 ― 2008年05月29日 11時39分45秒
例えば『秋川』は『あきかわ』だと思つてきたが『あきがわ』らしいのだ。
秋川渓谷で有名な『秋川』だ。
地名はむづかしい。渓谷がついたら『あきかわけいこく』なのかも知れないと、疑問を持ちつつ少なくとも駅名は『あきがわ』だ。

『川』つながりで、世田谷区京王線沿線に『仙川』がある。
これも『せんかわ』と思つてきたが『せんがわ』だつた。
もつといふと『千川通り』の『千川』と『仙川』を勘違ひしてゐた。
『千川』は『せんかわ』だと思ふのだが……。

最近すつかりカメラを持ち歩かなくなつてしまつた。
まあ、ぎくしゅり腰で杖をついてゐたら、確かに大変だが、もう杖はついてゐないし、それ以前から、ご無沙汰なのだ。
この電話付きデジタルカメラのせいだらうか?

電話付きでレンズが小さいし、機能も限界があるからだと思ふのだが、これが結構半端な写真が撮れるのだ。

フイルムカメラの奥深い曖昧さとは違ふけれど、大雑把でいい加減な感じが意外にいい。

といふか、慣れてしまつたのだらうか?

固有なものだと思ふが、逆光のときにレンズの関係で画面片側にピンクの固まりが出る。
これを邪魔と思ふか、味と思ふかが、境界線なのだ。

精密美!?ではないことは確かだね。
かまきり ― 2008年05月31日 13時32分34秒
黄色があまりにもまぶしかつたので、撮ることにした。

何かゐた。

かまきりだ。

小さい。
小さい奴がことさら好きだとは言はないが、気を惹かれる。
姿を撮りたいが、接写に限りがある。
とにかく上から撮つてみる。

こいつ何かを考えてゐるとか、人生観(蟷螂生観)があるとはどうしても思へないが、つ〜か、無いよな。

でも、何かを考えたり『生観』があることを、人間の特権と思つたり『業』だと思ふのはどうなんだろ?

ここで、深く哲学してみやうかと思ふのだが、素養がないので仕方がない。
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