大久野島を巡る13 ― 2013年03月23日 22時06分22秒
ちょっと今更であるが、当日何を頼りに歩き回ったかというと、

休暇村のフロントに置いてあったこの地図。
お世話になりました。
玄関前にある大きな案内板には、芸予要塞時代であるとか、毒ガス製造時期であるとかの説明つきで地図がありました。
その地図は写真に撮ったけど、もっぱら利用したのは、上記の地図。
やはり印刷物って利用価値大きいなぁ。
ただこれには、比較的初っぱなに紹介した「野ざらしタンク跡」がなかったり、北部照明所跡も乗ってなかった。まあ、発展途上ということですね。
いづれにしろこの地図のすべても回ることは出来ませんでした。
単純に見落としていたのと、時間切れかな。
ホントは『最後の「北部砲台跡」』に最後に行ったのだけど、都合上先にブログしてしまったので、大久野島遺跡巡り部門(いつの間にそんな名前が!?)のラストは火薬庫跡です。

(ところで、行く途中に発見した怪しいプールも地図にはありません。)

さて火薬庫は英語だと "powder magazine" というのですね。
へえ〜〜〜って思った。

これは芸予要塞時代から、つまり明治の部門ですね。
(なんでも部門になっとる…)

砲台の時代だから当然火薬庫が必要だったわけですね。
しかし、毒ガス製造時代にも化学兵器の製品置き場に利用していたと案内板にあります。
そう。毒ガス作りって、当時働いている人たちは「化学兵器」を作っていると聞かされていたようですね。(これは案内板情報ではなく、今回ブログを書くにあたってあれこれインターネットで調べて見つけた情報)
で、さらに、朝鮮戦争当時(これも当然昭和ですが)アメリカ軍が弾薬庫として使っていたそうです。
案内板に「火薬庫」と「弾薬庫」と両方表記があるので、少しニュアンスの差があるのでしょう。
とにかくずいぶん使われてきたのだなと思います。
だからという意味ではありませんが、見事に屋根がありません。

そもそも火薬庫の屋根は、爆発したとき(事故など?)に簡単に抜けるように作ってあったようです。

横方向への安全を守るということなんでしょうが、実際に爆発したのかどうかは判りません。
草がいっぱい生えてますが、瓦が多数落ちてます。

ちょっとわかりにくいですね。
ウサギもいるんです。(矢印)

端っこに瓦が残ってます。

反対側にも。
どんな屋根だったのか見てみたい…。

この出入り口部分の屋根はどうみても波形トタン板ですね。
これがいつの頃の名残なのかは判りませんが。

ところで、ここの壁のレンガもロシア製なのですかね?
目の前に井戸もありました。

防火用水にはならないのではないだろうか…。
ということで、

逆光のなか走ってきたウサギと

お別れして。

つづく。
(あとはウサギだけ)
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