古典SF二つ ― 2005年10月26日 10時12分53秒
古典と題しておきながら、どの辺が古典なんだろう?と不確かなまま‥‥‥。 ひとつ目は「われら」ザミャーチン作、川端香男里[訳] |
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ロシア語なもんで、、文字をスキャンしてしまいました。 1920年。古典ではないですかね? ことにこの作品は、ペレストロイカまで、ほとんど抹殺されてゐたようなので、人目についた時期といふ意味ではかなり新しいとも言へますね。 読んで驚いたのは「エイトロン」に、いや、「エイトロン」が非常によく似てゐたといふことですね。まあ、エイトロンは管理世界SFの定番に向かって直球を投げてゐたので、不思議はないのですが、「われら」はまさにルーツなのかも知れません。だから古典でいいですね。ジョージオーウェルの『1984(1949年)』なども、この範疇だと思ひます。 それから、ロシア文学ではなくソビエト文学であるところが、特別な時代性を感じます。 これは、図書館の書庫に眠ってゐるのを借りました。鉛筆であちらこちらにラインが引いてあるのがご愛嬌‥‥‥っていふか、いかんよ平成8年以前に借りた人の誰か!しかもあんた後半の方は息切れして、ラインの箇所が減っとるやんけ!根性足りんよ。その割には解説にまたライン箇所が集中しててメモ書きまでしとる!いかにも一夜漬けレポートのたしにしたみたいやで! |
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まあ、そんなこんなで、ソビエト、翻訳物、古典、といふことで、いささか不安があったのだが、主人公の「覚え書き」をひたすら綴った作品で比較的読みやすかったので助かった。これは、地球外生命体へ向けての文書用に書いてゐるものだ。 しかし、数学的完全調和に大満足して生きてゐる主人公が、目覚めてしまう原因が、ひたすら『絶対的色気』であるところが、凄い。これは「エイトロン」にはない。 そして、主人公が、悶々とし始めると、わかりやすかった内容が、どんどん内面的、象徴的になっていき、いささか、わかりにくくなる。恋の悩みは本人にしかわからないのだ。ましてや、絶対調和とのアンバランスに苦しんでゐるわけだから、その振幅幅はかなりである。 ペレストロイカ以後と書いたが、1931年まで、少なからず発表はされたようである。10年間、皮肉なユーモアを振りまいて、そして、封印されたのだ。 ああ、そうそう。今風な作品ならば地球が荒廃して、人類保存のため、ドーム都市を造るといふ発想だと思うが、「われら」の特徴は、初めから自然と自由を嫌い人類の発展のためにドーム内にユートピアを作ろうとしたことだ。「緑」を嫌う画期的な作品だと思う。
さて、もう一つの古典は、先送りにしてきた『宇宙戦争』
いや、もう少し真剣に‥‥‥。 |
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