西部劇小説2005年11月06日 16時54分37秒

 『ワイオミングの惨劇』(Incident at Twentu-Mile)トレヴェニアン(Trevanian)著。雨沢泰[訳]新潮文庫。
 トレヴェニアンといふのは単なるペンネームではなくて、覆面作家として意義のある名前として使っているらしい。作品ごとに作風を変え、さとつの作家性に収まりたくないと考えてゐる結果のようだ。写真もない私生活を公表しない(これは、普通の考え方だと思う。作家が私生活や自分の写真を発表する必要は全くないでしょう。しかし、現実的には確かに違う)小説だけを読んで欲しいといふことだろう。
 ぼくにとってはこの15年ぶりに発表されたといふ『ワイオミングの惨劇』が初読みだが。有名なところでは『アイガーサンクション』がそうなんだそうだ。映画で知ってゐる。その他に『シブミ』なるあきらかに日本を意識したタイトルのものもあるらしく、興味がわいた。
 興味がわくのは『ワイオミングの惨劇』が面白かったからだが。
 これは西部劇!
 西部劇の小説があって不思議ではないのだが、ぼくは映画の印象が強い。しかし、いつからいつまでが西部劇なんだろう?と考えると、結構悩む。日本で言へば、時代劇とは、何時代から何時代までの作品をいふのだろう?大和朝廷ものを時代劇といふ人はゐないと思う。時代劇として真っ先に浮かぶのは宮本武蔵とか、必殺仕掛人か?
 となると時代劇とは関ヶ原以降かしら?でも、そうしたら、室町時代や鎌倉時代は?織田信長(安土桃山)は?
 意外と判断に悩む。おそらく暗黙の定義があるのではないかと思うが、どうやって調べればいいのだろう?鎌倉〜安土桃山にかけては戦国時代としての印象があるね。この辺は戦国ものとした方がいいのだろうか?時代劇といふとチャンバラだ。チャンバラといへば剣豪。剣豪といへば、やっぱり宮本武蔵が出て来てしまうな。
 そこはいいんだ。君は時代劇だよ。古いところでは誰だ?
 と一人で試行錯誤しても結論はでない。西部劇から日本の時代劇に話がそれてしまった。
 そこで、西部劇に戻ると、ゴールドラッシュ以降が、そうかなと今突然思う。これは限りなく正解に近いのではないかと思う。カリフォルニア辺りで、金が発見されて人々は西へ西へと向かったのだから、考え方としては正しいだろう。
 では、いつまで?と聞かれるとそこでまた悩む。
 時代劇なら、幕末まで!
 スタート地点は難しいが、着地は楽だ。もちろん、スパッとは切れない。幕末から明治維新が、物語になることは多い。どちらを切り口にしてゐるかは作品ごとに違うだろう。でもとにかく明治時代のものを時代劇とは言はないと思う。
 さて、では西部劇は?
 これは映画の側から、考えた方が分かりやい。まずはそこそこ有名な話から(そこそこ有名な話といふのは、実はガセが多いので要注意ではある)世界初の西部劇映画は1903年『大列車強盗』だ。もちろん無声映画。注目はこれが『現代劇』として作られてゐることだ。つまり『オーシャンズ11』みたいなもんだ。
 だから、なんだと言はれても困るが、ガンマンとしても有名なバッファロービルは『西部ショー』など実際にやってゐるた。(オーシャンオブファイアーに出てくる。1890年ぐらい?)
 かういふ出し物になると言ふことは、そろそろ終わりといふことなんではないだろうか?  「西部の終わり」に執着するサムペキンパーの『ワイルドバンチ』の舞台が1913年だ。
 絶対に西部劇ではない。と自信を持って言へる『俺たちに明日はない』は、1930年代が舞台だ。
 だから西部劇のラストは1910年から20年の間ぐらいではなかろうか?
 おくまでも個人的考察ですが、結論が出たところで『ワイオミングの惨劇』です。ふう‥‥‥。
 これは銀山の麓にある小さな(ほとんど捨てられたような)町、トウェンティマイルを舞台にした物語。
 これが、面白い。ヒーロー物ではないです。主人公の少年の愛読書が『リンゴキッド』といふ西部劇ヒーローといふところがミソですが。これは図らずも『西部の終焉を描いた西部劇』のひとつと言へます。
 アンチヒーローものとも言へる。西部劇におけるアンチヒーローものとは、いままで、ヒーローとされて来た有名人が実は悪い奴だったとか、インディアン殺しまくりを絶賛できるわけないでしょ!との反省から生まれた白人いけない映画がありますね。
 でも、ふと考えてみれば、ビリーザキッドとかジェシージェームズなど、いはゆるアウトローたちの物語は本来ならアンチヒーローものだよな。人殺しや銀行強盗ぢやん。でも、悲劇のヒーローとして描かれとるんやね。友達に撃たれたり、背中から撃たれたりしたことで、ヒーローとしてもよいとされるのだろね。
 ところで(話はまたそれてゐるが)ぼくはクリントイーストウッドの『許されざる者』を許さない‥‥‥。
 まあ、これも先入観で見てしまったのが、いけないのだけどね。
 納得できないな〜。途中と言ふか「ほとんど」ラストまで、かなりよかったんだけどね〜。
 ぼくの先入観とは、あれです。今まで、クリントイーストウッドが演じて来た「アウトローだけどヒーロー」な、ガンマンたちが、実はただの人殺しだった。西部劇否定の西部劇だと思ったんですわ。
 見てゐると息苦しくなるぐらい、そんな感じで展開してゐたのに、なんのことはない結局「西部劇のヒーローはやっぱりヒーローなんです」と終わるのだもの‥‥‥で!ネタバレやん!
 でも気にせず。「昨今、西部劇ばなれの世の中で、過去のヒーローを悪く言ふ奴らがゐますが、確かに奴らは人殺しだったり、強盗だったりしますが、とある特定の人たちには本当に優しかったのです。だからヒーローなんです」と。
 いや、それは解りますが、それでもジーンハックマンの保安官の方に、感情移入してしまった私です。
 今見るとまた感想が変わるかしら?
 ふう‥‥‥。
「ワイオミングの惨劇」の話や‥‥‥。ワイオミングと言へば、ワイオミングの兄弟って‥‥‥。
 どんどん話がそれるので、深呼吸。

 とにかく面白い。
 そして終章、時代が飛んで1998年になり、いきなり「私」が登場して後日談が語られる。「私」の思い入れや感傷がひしひしと伝わってくる。「感傷的」といふ言葉がこれほど気持ちよく溶け込んでくるのも珍しい。
 といふことで「物語そのもの」と「後日談における私の感傷」と二度おいしい作品である。
 ぼくは最後の二行を読んだ時、思わず「んぎょっ」と、のけぞり「ムジュワッ」と涙がにじんでしまった。
 そして、さらに解説にうれしいことが描かれてゐた。これは、ぼくが作品の企画等をやってゐる時に、よく口にすることで、だけど、周りにはなかなかわかってもらえない(説明が下手)ことである。
 トレヴェニアンの小説作法だそうだ。一部だけ引用する。
 「登場人物でも、舞台となる場所でも、テーマでもなく、読者がふと本を置いて、読んでいるもののことを少し考えるときに感じてほしい、小説の総体的で決定的な空気−−−日本語で言うAji(アジ=味)−−−のことである」それが、小説の核なのだと!

 西部劇を探してゐたら、これまた微妙な作品を見つけてしまった。この映画の舞台は1913年(ワイルドバンチと同じ)のオクラホマらしい。石油採掘ラッシュを舞台にしてゐる。内容的に西部劇かどうか判断に困る作品だ。西部劇といふからには場所は重要だろう。オクラホマはアメリカのほぼ真ん中だ。でも、テキサスならば西部劇のイメージがあるが、実は真ん中だ。つまりは東部(エリートたちのゐるところ)に対しての西部と考えた方がいい。ミシシッピ以西は充分西部なんだろうな。
 石油採掘ラッシュと言えば『ジャイアンツ』を思い出す。あれはもう少し後(数年?)だと思う。西部劇ではない。エリートたちが西部でビジネスを展開する様になって西部劇は終わるんだろう。
 ゴールドラッシュから石油採掘ラッシュまでが西部劇と勝手に定義づけて。

TVシリーズ初監督作品2005年11月08日 08時59分44秒

 1989年4月から1990年3月まで、『アイドル伝説えり子』といふのをやっとった。
 サンミュージックの田村英里子の名前と楽曲をお借りして、波乱万丈のアイドルストーリーを描くといふ企画だ。しかし、当時すでにアイドルブームはかげりを見せてゐた。
 と思う。
 以前にもこのブログに書いたと思うが、田村英里子はドーナツ盤最後のアイドルでは無いかと思う。
 それはさておき、アイドルもののアニメーションを作るにあたって、アイドルは研究した!?
 アイドルと言っても昨今のアイドルのイメージとはだいぶ違うのでは無いかと思うが、その辺の考察は専門家にまかせる。
 本田美奈子.は名前が好きだったので、よく覚えてゐる。当時は「.」は無い。
 特に印象的なことはアイドルと呼ばれることを嫌い、自分はアーティストだと言っていたことだ。
 それをあからさまにバカにしてゐた某バンドリーダーのことも記憶に残ってゐる。
 テレビドラマのエンディングを歌ってゐた。タイトルは忘れた。プリテンダーズの「ドントゲットミーロング」にそっくりな曲だった。彼女の歌っている姿は思い出せるが、何故か曲は思い出せない。だから、今頭の中でぐるぐるしてゐるのは「ドントゲットミーロング」の方だ。
 『アイドル伝説えり子』は、別に当時のアイドル界を表現してゐない。別物なので御容赦願いたい。この作品はテレビシリーズ初監督作品だし、その後、LDが出る時にチャプターを決めるために、流し見してゐるので、結構良く覚えてゐる。
 くり返すが、えり子は波乱万丈の末39話で、栄冠を勝ち得る。テレビシリーズをやってゐると、延長か打ち切りかで、ストーリー展開を考えなければならない。えり子も、どうなるかわからない作品だったので、39で終わってもいいように作った。延長が決まっても、そこまでの展開を返るつもりもなかった。39話は丁度年末にあたるので、賞取りストーリーが手ごろだったのだ。
 その後、えり子は48話まで平和な日々を送る。それはもう腑抜けるぐらいに平和に浸る。
 しかし49話でいきなり「アイドルって何?」と少女マンガのような(そもそも少女マンガか‥‥‥‥)悩みが訪れる。そして、失踪し、51話(最終回)のラストまで、えり子は消える。
 えり子はアイドルとアーティストのはざまに悩んだわけではない。ただ単純に波乱万丈から抜けた後、自分の存在そのものに疑問を感じたのだと思う。
 周囲の人々は、えり子の不在に戸惑う。それぞれ受け止め方は違う。感傷的、建設的、独りよがり、困惑。共通点は、空白感だ。えりこ自身を襲ったのも空白感だ。
 しかし、身近で無い人々。テレビや雑誌でしかえり子を知らない人々は、空白を感じない。マスコミがいかに騒ぎ立てようとしても、人々は冷静だった。
 そして風が吹く。
 空白を感じなかった人々には風のメッセージが届き、それぞれがとある高原へと向う。全国各地から一ケ所を目指して身近で無い人々が移動してゆく。
 その風はえり子の方から吹いた風では無い。もっと、気紛れなものだ。
 でも、えり子も自分の中の空白感が、その風に引かれたのかそこに現れる。
 えり子が失踪してゐる間に何をしてゐたのかは、わからない。描かれない。考えてない!
 でも、とにかくえり子は戻った。そこはテレビアニメだ。作り手の楽観性も出てる。
 現実は厳しい。本田美奈子.は戻らなかった。38歳だ。年寄りならいいか?とさういふ問題では無いが、やはり若いのにと思う。「突然」と報道されてゐるが、突然ではあるまい。本人の苦しみは本人にしかわからない。ぼくに空白感は訪れないが、やるせない気分にはなる。
 片岡義男の少女向けの短編小説に『飛びなさいと星がいう』といふのがある。漢字の使い方とかは違うかもしれない。忘れてしまった。
 これは、校舎(ビル?)の屋上から飛び下りてしまった子のお話だ。飛び下りてしまった子の手記だったか、あるいは会話だったか「とびなさいって星がいうんだ」といふ言葉を、親友が聞く(見る)。
 後日その親友は空を眺め「どの星だろうね。そんなこと言う奴は」と静かな怒りを込めて言うのだ。

動物園の檻の中2005年11月09日 16時49分57秒

 野毛山動物園の話題はつづく。
 これは、ホッキョクグマのいた動物舎だ。今はいないので、中を見て回れるようになっている。
 面白いと思う。それでも、入れない授乳室などがあるのだが、普段は動物の入る場所から外を眺める機会はあまりない。だからと言ってシロクマの気分になれるものではないが、得した気分にはなる。

 手すり越しで分かりにくくなってしまったが、シロクマの模型が、お腹を出して寝転がっている。
 そこでこんな光景を見た。遠くからで見にくいが、お母さんと幼児だ。近付くのははばかられたので、遠くから写真を撮った。

 模型のシロクマを相手に、
母「あれえ、こんなところで寝ているよ〜」
子「んふふ」
母「起こしてみようかぁ。シロクマさん」
 し〜ん。
母「起きないね〜」
子「んふふ」
 ‥‥‥‥よいしょっと、手を掛けてみる母。
母「やっぱり起きないねぇ。変だね〜」 子「んんふふ」
 と、模型相手にお芝居だ。

 ぼくはこんな光景が好きだ。

 まだ、小さくても、子供にだって、それが本物でないことぐらいわかる。
 でも、お母さんがこんな風に楽しく、優しく遊んでくれるのがうれしいに違い無い。

 そうは言っても、やがて、こんな些細な出来事は、きっと忘れられてゆく。
 記憶とはそんなものだ。

 だけど‥‥‥‥お母さんが模型のシロクマに優しくおどけて接した気持ちは必ず蓄積されるとぼくは信じる。

主にマイナーだったバイクのこと2005年11月11日 16時20分01秒

 文学にひたろうと思って、また志賀直哉の短編集を借りた。
 「万暦赤絵(他二十二篇)」まだ途中だ。
 途中なことには意味がある。
 まあ、はやい話が面白く無いんだ。
 頭からまだ4つぐらいしか読んでないか‥‥‥‥。ひたすら、浮気関係の話だ。すべて本人の話だ。作り話風に『彼』と表記してゐるものもあるが、なんで、ひたすらこんなもの書いてんのか?
 いかな文章が美しくても、ばかばかしいよ。
 たしかに志賀直哉の心理表現は、矛盾をそのままに描き出すので、感情の裏の裏の裏まで、堂々回りに表現されてゐて、そこは、面白い。だけど、前に呼んだ短編の中にあった『范の犯罪』のように「殺したいとは思ったけど、その時殺したいとは思わなかった。けれど、殺意は持っていた。しかし、殺そうとしたわけでは無い。だから、殺してしまったときは心底愕然とした」(以上、ぼくの記憶の中の再現)といふような、深い心理描写(!?)にかける。
 といふことで、読書する気力が持続しない。
 やはりぼくに文学はむかないのか?
 なんとか、最後まで読んでみるけど。
 そんな状態で、またやってしまった。別に志賀直哉のせいではないが、大型トラックの横をすり抜けようとして、歩道の縁石にスカラベオのカウル(?)の左下側を
がしゅをぅいん!と擦ってしまった。
 びえ〜〜〜ん。である。スクーターの、カバー部にの高さには慣れたつもりだったが、目測を過ったのだ。
 といふか、単に注意散漫か。しくしく。こんなことを続けてはいけない。気を引き締めねば。
 と、ふと不幸なバイクのことを思い出した。
 ぼくは、「宇宙の戦士」を作ってゐるときに、バイクを新しくした。それまではホンダのシルクロードといふのに乗ってた。250ccで、お気に入りだったが、400に乗りたくて買い替えたのだ。
 新しいバイクは「ブロス」といふ、デザインがありそうでなさそうな(バイク通から見れば中途半端だったのかも)やつだった。珍しモン好きのぼくは、飛びついた。
 そして、翌日。大型トラックの横をすり抜けようとしてゐたときに、いきなりトラックが左折して、巻き込まれた。
 いや、巻き込まれたら大変だ。ほとんど、すり抜け切るところだったので、右足から後輪に掛けて
バゴシュギュッボンッ!と、トラックに擦られる感じだった。トラックはそのまま曲がって行った。轢かれなくて幸いだった。
 バイクがそこそこのスピードだったのではじき出されたのだろう。ぼくは、交差点の真ん中までバランスを崩しながら進みそこで、コケた。環八と新青梅街道の交差点。某編集スタジオのすぐそばといふか目の前だ。
 トラックはそのまま谷原方面へ去った。(気づいてもゐないのではないかといふのがこの後来たバイク屋さんの見解だ)
 呆然‥‥‥‥。「なに?‥‥‥‥え?‥‥‥‥どうして?」  思考能力を失ったまま、昨日買ったバイク屋さんへ電話して来てもらった。
 店長自ら来てくれて『まだ、30時間たってないよね〜』と言った。とほほ。
 いきなり傷物にしてしまったが、店長いわく「禊(ミソギ)だね」と。
 そうか、そう思おう。これで、ブロス君には不幸は訪れないはずだった‥‥‥‥。

 しかし、もちろんかういふ書き方をするからには、しかし‥‥‥‥。
 あれは、数年たち「あしたへフリーキック」を作ってゐるころだ。某プロダクションのそばに置いておいたブロス君が消えてゐた。
 「へ?‥‥‥‥なに?‥‥‥‥たしかここに置いたよな〜?」
 しっかり盗まれたのでした。マイナーと言われたブロス君もついにパクられるまでに成長した。
 ‥‥‥‥って、違うわい!
 ショックでぼくはすぐにカワサキのZZRを買った。これこそが本当の衝動買いだ!
 そして、しばらくしてからブロス君は見つかる。高円寺の五日市街道入り口付近に捨てられてゐた。お巡りさんのいふことには「最近は盗んでガソリン空になるまで遊んで捨てるんだよね」とのことだ。
 あれは夏だった。バッテリーも使用不能状態で、ぼくは汗をかきながら青梅街道を押してバイク移動。
 ホンダがあったので、事情を話して、修理してもらう。
 そして、どうしたか?
 ブロス君は演出のそんざん君にあげた。
 衝動買いした日に「出て来たらあげる」と約束したのだ。
 その後のことは良く知らない。

 もう話は終わりだけど、失礼にもブロス君の悪口を書く。ヒドイ!
 マイナーなまま消えていったブロス君だが、構造上の決定的欠陥があったことは否めない。
 タンクから、シートへの形状があまりにも斬新で、重要なケアがなされて無かったのだ。
 女性はともかく男性には不向きなバイクだ。
 急ブレーキまでいかずとも、止り方が悪いと、彼処にタンクが激突する。
 これはキツイ。願わくば、盗んだのは男性で、さんざん苦しんだことをいまさらに望む。

 で、ついでにもう一つ。
 今日、エブリィワゴンに乗り込む時に何故か、入り口の上部に頭を激突した。
 歯が噛み合わさって
カクシャンッ!と頭の中一杯に音が響いた。痛みより、音に驚いた。
 何故そんなことになったのかといふと、直前に姉からメールが届き、返事を出して、左手にリュックと携帯を持ち‥‥‥‥。
 いつもと違う角度で侵入したといふのが、物理的見解だが、なんのかんのと注意力散漫でしょ。
 やれやれ‥‥‥‥.。いまもまだカチューシャをつけてゐるような痛みとも圧力とも不明なもやもやが前頭部を漂う。