紫陽花の季節2006年07月01日 23時04分55秒

 なんかタイトルと写真がいきなり違ふのだけど、このタンポポはなんか雑草のたくましさを感じて撮りました。

 さて、けふ車を走らせてゐて、立派な向日葵(ひまわり)を見てしまつた。
 『しまつた』といふ言ひ方もないものだが、ちよいとショック。紫陽花(あじさい)の季節だな〜写真撮らなくてはと思ひつつ怠つてゐたら、いきなり向日葵だもの。しかもまたスラリと真つ直ぐに凛々しく立つた見事な向日葵だつたな。
 と、毎月毎月思つてしまうけれど、もう新しい月だ。
 六月は何してたのかな〜。記憶にない!?とは言はないが、速いな〜。スピードスピード。
 けふは以前紹介した秋始まりの作品の24話の絵コンテチェックを終へました。まだ22話をやつてないで、あとは25、26と3本ですね。遅いな〜。スピードスピード。もうずいぶんと長いことやつてます。月日の流れと、作品の進み具合のギャップに驚嘆の日々ですね〜。
 今度の月曜日はいよいよ1話のダビングなのだ!
 ダビングといふのは(まあ、このブログを見てゐる人のほとんどが知つてゐると思ふけど)出来上がつたアニメーションにセリフと効果音と音楽を入れ込んで
バランスを調整して、テレビなどで見られる状態にすることです。まあ、つまり限りなく完成に近い状態になるといふことで、楽しくも緊張感のある作業なのです。
 ただ、ご存知の方は「ええ〜!?」と思つたかも知れませんが、24話の絵コンテチェックと1話のダビングが同時期になることはかなり珍しい事態だと思ひます。かうなると頭の切り替へが意外とむづかしいのです。もうすぐお話が終了する頃の構成を考えつつ、スタート時点の内容を整えるわけですから、不思議な感覚に捕はれてしまうのですね。確固たる信念でブレない作品作りをすれば別に気にすることは何もないのですが、やれ紫陽花の季節だ、向日葵が咲いちまつたなどと、浮き世の流れに影響を受けやすい人は、気分で方針を変更してしまつたりすることがあるので、要注意です。
 そんなわけで、茎が折れ曲がつても役目を全うするタンポポを見習はなくてはねと(タンポポの漢字は『蒲公英』ですね。紫陽花、向日葵に比べると馴染みが薄いかな〜。どのみちワープロがないと書けないですけど)思つて。

片付けられない部屋2006年07月02日 23時02分44秒

 このところ忙しさにかまけて、テレビで時々特集などしてゐる『片付けられない女』の部屋みたいになつてしまつた。
 といふのは言ひ訳で、実は子供の頃から部屋は散らかつてゐた。
 ただまあ、さすが大人といふか、どうしやうもなくなると自力で片付ける(当たり前か)能力を持つてゐる。
 ので、けふは部屋の整理をした。
 と、実は実は何を隠さう。明日のダビングに使ふ音楽のCDが見つからずにヤバかつたので、やつたのだ。
 まあコピーの手配は済ませてあるので、無くても大丈夫ではあるのだが、一応制作側のオリジナルCDなので、無くしたままといふ訳にもいくまい。他にも探し物があつたので、一気にやつた。
 なんでもどんどん積み重ねる癖があるので、埋もれてゐると思つたのだ。
 しかし、重要な書類が次々と出てきたが、CDは出てこない。
 う〜ん。まづい。
 重ねものクリア。
 無い!
 むむっ!

 でも、いいや。
 と、そこであつさりあきらめて、ついでだから古いデータCD等の整理をすることにした。
 さうしたら、あれま、見つかりました。
 見つかつたといふよりも、各話数のデータCDと一緒にきちんと並べてありました。
 あれれ?何故かすつかり重ねものに埋もれてゐると思ひ込んでゐたので、まさか、整理されてゐるとは思はなかつたのね。う〜ん。別な意味でまづい。
 まあ、部屋が、少々快適になつたので、良しです。

 そして、TSUTAYAで借りた(最近、DVDだな。映画館に行かんといかんな)『銀河ヒッチハイクガイド』見る。
 原作を読んでから見やうと思つたのだが、読みそこのうてしまい、だから見そびれてしまつたのね。公開当時図書館でも人気があつて人数が減つてから予約を入れるつもりが忘れてしまつたのだ。
 これ。
 はつきり言つて面白い!
 とにかく面白い。
 映画を先に見てよかつたかも。小説だと混乱したかもしれません。
 とにかく画面の呼吸がいいです。想念が深くまろやかに香ります。
 あるいは肌触りがいいと言つておきませうか。
 本は遅ればせながら予約しました。1番!?
 ヒロイン(!?)役の女優の目の青さが、きれい。

猫は止まる2006年07月04日 23時48分19秒

 帰りに家のそばで猫に遭遇。
 よく猫は止まると言はれる。
 たたっ!と道に走り出したはいいけれど、自動車などが走つてくると、パニクって前へも後ろへも行けずその場に立ちすくんでしまうのだ。
 その結果、跳ね飛ばされた猫はたくさんゐるだらう。猫の飛び出しは速いし、よるくらい場所だと、認識出来ない場合もある。
 猫は一般的にそんな感じだが、鳥はまた違ふ。
 鳩、雀、烏とそれぞれに多少の差はあれど、彼らはなかなか避(よ)けない。
 これが、ホントにぎりぎりまで避けない。
 さすが鳥といへばよいのか?
 それでゐて彼らはちやんと飛び立つてゐる。
 「ああ!」と思つてもそこにつぶれた鳩を見たことがない。
 「よけてよ〜」と徐行してもこちらの死角に入るまで雀たちは飛ばない。
 「しょうがねえな〜」と狭い道でこちらが一生懸命避けても、烏は「邪魔すんなよ。今、残飯食ってんだよ!」と文句たれる。

 で、さて、さつき遭遇した猫はどうだつたかと言ふと。
 ぼくはバイク。
 暗い道にのそのそ歩く猫影あり「あ、猫だ」と思ひ減速したが、猫はパニくる様子もなくゆつたりと道を渡り続ける。あまりに遅いので、目の前まで来てしまつた。ヘッドライトに照らされた猫は「あれ?」といふぐらいなもんで、パニくるも何も気づいてゐなかつたのだ。
 ホントに目の前に来て、しかもスポットライトにしつかり照らされて初めて「!?」となつたのだ。それが、また、悠長な驚きで、まあ、お年寄りの猫だつたのだな。
 「あんれま〜」とこちらを見上げて、そこで、しばし止まり(パニくって止まつたのとは違ふな〜。いや、心の中ではパニくったのだらうけど)それからもたもたと、目的の方向へ進みました。
 尻尾のクネクネと曲がつた白い猫でした。
 スポットライトに浮かび上がつたその影は何かに似てゐるやうな‥‥‥でも、猫です。

同姓の偉人の本2006年07月05日 23時39分18秒

 この本は、2001年に買つた本。
 600ページ近くもある大作で、不勉強なぼくには難解で、中々読み進めず、まあ、早い話が挫けたまま5年が過ぎた訳です。う〜ん。
 そして、この文庫本といふか文庫版にはまえがきがあつて、これは小学館『日本の歴史』の第10巻として、1974年9月に刊行されたものの再刊とある。しかも、そのまえがきの日付が1992年3月であり、これはつまり文庫版のためのまえがきではない。再刊は『小学館ライブラリー』の一冊としてで、それがさらに2001年に文庫化されたことになります。
 さらに書き加えるとまえがきにはかうある。
 大変恐れ多いが少々略して書く『すでに17年の歳月が経過しており、鎌倉時代後期史の研究は、飛躍的に発展した。この書に対する的をついた批判も多くあり、私(網野氏)自身の考え方も、多少変化している。でも、一部に変更を加えることは、他のすべての叙述に影響してしまう。それ故、資料の解釈について、すでに誤りであることが明らかになっている部分、史実の評価が適切でない箇所も、そのままにせざるを得なかった』
 と、このあとがきから9年後に文庫化、そしてさらに5年後にぼくは意を決して読んだわけです。
 勉強せねばといふ思ひで読んだものの基礎知識の薄さには我ながらあきれるばかり『史実の評価が適切でない』と言はれても、判断のせやうもない。
 3ヶ月は持ち歩いただらうか?(よく見るとわかりますが、カバーボロボロです)
 それだけ長くかけて読んだにも関はらず、飛ばし読みをしたほどにも蓄積されなかつたのではなからうか?
 やれやれ‥‥‥。いかん。
 しかし、それでも、網野氏の意思は少なからず感じたつもりです。
 『蒙古襲来』とはつまり、日本(網野様、申し訳ない『日本』と書きます)といふ国が、異国の脅威を受けてどう変化したのかを必死に追求してゐる。副題の『転換する社会』とはさういふことです。
 なので、この本は『蒙古襲来』と題してゐるけれど、ほぼ真ん中あたりで、2度の元寇は終はつてしまいます。そこに印象深い文章があるので、書きます。

『しかしこの外寇が、一夜の暴風によつて終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって「幸せ」だったのだろうか。犠牲はたしかに少なくてすんだ。それが、一つの幸せであったことはまちがいない。しかし、不徹底な結末は「神風」という幻想を遺産としてのこし、のちのちまで多くの日本人を呪縛しつづけた。(中略)七百年前の偶然の「幸せ」に、つい五十年前まで甘えつづけていたわれわれ日本人は、きびしくみずからを恥じなくてはなるまい』

 後半、異国の脅威が日本にどんな影響をもたらしたのか、そして、現在まで如何に引きずられてゐるのか、綴られる。3度目の元寇も計画はあつた。異国が攻めてくるといふ情報が、人々をどう動かすのか?政府は?
 起こつて(転換して)しまつたことを、読み解くことで『今』何をやるべきなのかを、問題提起してゐると感じます。テポドン乱射は本当に理解に苦しむけれど、滅茶苦茶をやり続けてきたスモールファウンテンを5年も支持してきた国に住むものとしては「俺たちもおかしいけどさ」と思はずにゐられません。

 お‥‥いかん。

 そして、この本のテーマは明確なのですが、ぼくには書けません。テレビの仕事などをしてゐると、避けて通る癖がついてしまうのです。

 でも、網野氏はかう書いてます。

『この二つの克服さるべき問題が、われわれの前には厳然と存在している。それから目をそむけることは、だれにもゆるされない。それは歴史そのものがわれわれのすべてに課した課題だからである。』

 避けて通る癖を克服せねばならんのですか‥‥‥‥?