同姓の偉人の本2006年07月05日 23時39分18秒

 この本は、2001年に買つた本。
 600ページ近くもある大作で、不勉強なぼくには難解で、中々読み進めず、まあ、早い話が挫けたまま5年が過ぎた訳です。う〜ん。
 そして、この文庫本といふか文庫版にはまえがきがあつて、これは小学館『日本の歴史』の第10巻として、1974年9月に刊行されたものの再刊とある。しかも、そのまえがきの日付が1992年3月であり、これはつまり文庫版のためのまえがきではない。再刊は『小学館ライブラリー』の一冊としてで、それがさらに2001年に文庫化されたことになります。
 さらに書き加えるとまえがきにはかうある。
 大変恐れ多いが少々略して書く『すでに17年の歳月が経過しており、鎌倉時代後期史の研究は、飛躍的に発展した。この書に対する的をついた批判も多くあり、私(網野氏)自身の考え方も、多少変化している。でも、一部に変更を加えることは、他のすべての叙述に影響してしまう。それ故、資料の解釈について、すでに誤りであることが明らかになっている部分、史実の評価が適切でない箇所も、そのままにせざるを得なかった』
 と、このあとがきから9年後に文庫化、そしてさらに5年後にぼくは意を決して読んだわけです。
 勉強せねばといふ思ひで読んだものの基礎知識の薄さには我ながらあきれるばかり『史実の評価が適切でない』と言はれても、判断のせやうもない。
 3ヶ月は持ち歩いただらうか?(よく見るとわかりますが、カバーボロボロです)
 それだけ長くかけて読んだにも関はらず、飛ばし読みをしたほどにも蓄積されなかつたのではなからうか?
 やれやれ‥‥‥。いかん。
 しかし、それでも、網野氏の意思は少なからず感じたつもりです。
 『蒙古襲来』とはつまり、日本(網野様、申し訳ない『日本』と書きます)といふ国が、異国の脅威を受けてどう変化したのかを必死に追求してゐる。副題の『転換する社会』とはさういふことです。
 なので、この本は『蒙古襲来』と題してゐるけれど、ほぼ真ん中あたりで、2度の元寇は終はつてしまいます。そこに印象深い文章があるので、書きます。

『しかしこの外寇が、一夜の暴風によつて終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって「幸せ」だったのだろうか。犠牲はたしかに少なくてすんだ。それが、一つの幸せであったことはまちがいない。しかし、不徹底な結末は「神風」という幻想を遺産としてのこし、のちのちまで多くの日本人を呪縛しつづけた。(中略)七百年前の偶然の「幸せ」に、つい五十年前まで甘えつづけていたわれわれ日本人は、きびしくみずからを恥じなくてはなるまい』

 後半、異国の脅威が日本にどんな影響をもたらしたのか、そして、現在まで如何に引きずられてゐるのか、綴られる。3度目の元寇も計画はあつた。異国が攻めてくるといふ情報が、人々をどう動かすのか?政府は?
 起こつて(転換して)しまつたことを、読み解くことで『今』何をやるべきなのかを、問題提起してゐると感じます。テポドン乱射は本当に理解に苦しむけれど、滅茶苦茶をやり続けてきたスモールファウンテンを5年も支持してきた国に住むものとしては「俺たちもおかしいけどさ」と思はずにゐられません。

 お‥‥いかん。

 そして、この本のテーマは明確なのですが、ぼくには書けません。テレビの仕事などをしてゐると、避けて通る癖がついてしまうのです。

 でも、網野氏はかう書いてます。

『この二つの克服さるべき問題が、われわれの前には厳然と存在している。それから目をそむけることは、だれにもゆるされない。それは歴史そのものがわれわれのすべてに課した課題だからである。』

 避けて通る癖を克服せねばならんのですか‥‥‥‥?