どちらでもよい2006年09月24日 23時04分53秒

 呉智英著
「ホントの話 誰も語らなかった現代社会学<全十八講>」(小学館)

 物事を思考する時の基軸はなんなのか?そもそも常識は何故常識でいつから常識になつたのか?本音と建前以前に存在してゐる真実はどちらとも実は違つてゐるのでないかい?
 と、そんな疑問といふか問題提起といふか結論が並べられてゐる本。
 ホントの話とはホントの「ふりだし」がどこにあるかの話なのだと思ふ。
 これ、ホントに考えさせられるな〜。
 「再チャレンジなんとか」とかいふ奇天烈な事をいふ人がゐたけれど、誰だつけ?ま、もう、今更誰でもいいけど、そもそも根本に返つて考え直して欲しいと思ふね。それこそ「再チャレンジ」だよ。映画「ランボー」の原題は「First Blood」といふのだよね。ぼくは勝手に「最初の血」つて訳してるんだけど、つまり最初に殴つたのはどつちよ?といふ子供のケンカみたいな事だと考えてるのね。「ランボー」はもつと悲しい話でね。最初に殴つたのはどちらといふ前に、そもそも殴り合ひをすることになつたのは何故よ誰のせいよ。とね。どんどん根本へ根本へと遡らないとホントの答えは出ないのね。そこいらへん取つ払つていつの間にかうやむやにして、後から勝手なルールが出来て行つてみんなが勘違ひしたまま気がつけば常識ね。
 それつておかしくない?
 とまあ、そんなこと思つたり、単純に「おお、なるほど!」てなことも書いてある。この間読んでと紹介した本の第3部とはほぼ正反対の事が書いてあつたりと、読み応えあります。

 (突然だけど、キーボードの調子が悪い『1(!)』キーが無反応ぢやけん。文字パレット開いて打ち込みやねん)

 ともあれ気になる人です。この人。
 なんと言つても著者紹介がいい(?)
 以前読んだ『賢者の誘惑』にも同じ説明がありました。おそらく定番なんだと思ひます。

 かうあります。
 『呉智英 くれ・ともふさ、ご・ちえい、読み方は両方可』

 多分、どちらかが「ホント」だとは思ふのですが、よく間違へられたのでせう。ならば、表記さえ間違へなければ読みなど大した問題ではないと認可したのだと思ひます。なんか凄いな(面白いな)と思ひます。
 阿弥音の仮の姿(=)の場合、網野哲郎、読みはあみのてつろうでも、つなのてつろうでもいいといふわけにはいかない。ほそのてつろうは問題外です。表記も綱野はやはり間違ひです。哲朗もね。哲郎が正解。もちろん細野は問題外。最近仕入れたものでは「ワンイェツァラン」なんて読みがあるんだけど、自分でも発音出来ない。
 なかなか両方可といふ凄いところに至る事が出来ません。
 今更だけど、せめてアミノテツローでもアミノテツロでもいいぐらいなアバウトさを強調しておけばよかつたと思ふけふこのごろ。
 でもこれ余計に人々を混乱させるのだよね。はは。

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